Perl プログラマの「Perl で別に困ってないし」という人の、PSGI/Plack のような新しめのものを試して便利ないし必須だと思っている人の、数年前のことを思い出してほしい。彼らのなかには PSGI がきまる前もそんなに困ってなくて、mod_perl にべったり依存したものを書いて、テストごとに Apache を起動してそれが遅いとも思わずにいた人もいるんじゃないだろうか。それは短気でも傲慢でもなく、別言語を知らないか、あるいは知っていても取り入れないという、悪い意味で怠惰ではないかと思う。
「困ってないですよ。これで足りてますよ。」というときに何と比較して困っていないのかは注意しないといけない。便利を知らないうちは不便を認識しないということはよくある。
– Perl, あるいは困ることについて - Kato Kazuyoshi大学院の中は居心地が良かった。だが、それは冬にぬるま湯の風呂につかっているようなものであった。風呂の中にいる分には温かいのだが、湯はいずれ冷えてしまう。冷える前に風呂から出なくてはならなかった。
– 大学院をやめました|Colorless Green Ideas「わが社の強みは・・」とか威張ってる会社はロクなもんじゃない。そんなもん、消費者(=お金を払う人)には何の関係もない。
そうじゃなくて、「うちの商品はこれだけ売れてるんです!」って言ってる会社のほうが圧倒的にまともです。
強みから出来てようが、弱みから出来てようが、買ってきて集めた技術から作ったものだろうが、「これが欲しかった!!」みたいなもの作ってくれれば、それでいいんです。
「自分の強みを活かしてできる範囲」しかカバーしない企業なんかお呼びじゃない時代になってる。
– 自分の強みを活かすというアホらしい発想 - Chikirinの日記アメリカ人の友達から聞いたことなんですが、
「ソーシャルネットワークの普及によって
いつでも常に周りから見られてしまうので、
“自分はこういう人”っていう一貫性を持って生きていないと、
最近はプライベートタイムも気が抜けなくて大変なんだ」
と話していたことがあります。
その意味で、ソーシャルネットワークの普及で、
みんなが“可視化された世界”に生きているわけで、
便利な世の中になったけれども、
逆に窮屈さも生まれたのかもしれませんね。
癒えることのない病気になると、人はつい自分を責めるものだ。そういう心理は仕方が無い。また、運命を呪うようにもなる。それもしかたない。
そうしたことを、仕方がないものとして受け入れて行くのが、理性の役割だろう
現代の若者達は、意識の奥でみんなババを引いてしまったと感じている。自分は悪くないのに、何故か傷付けられていると感じている。マイナスの磁場のようなものを抱えている。その「心の空洞」に向かって「明るく元気に生きよう」「貧しさから抜け出して豊かになろう」と言っても通じない。こうした絶望、閉塞感を大きな歴史認識の中で捉え、考え直すことで「不条理な運命の中で生きる」ことを模索し、提示していく
– もののけ姫 - Wikipedia競技人生を振り返って、自分の自信の核になっているのは勝った事ではなく、あの時逃げなかった事、そして立ち上がった事。勝負をする本質はそこにある。人生は長く勝負は無数にある。負けない工夫より、負けにふてぶてしくなる方が最後は強い。
– Twitter / daijapan: 【終わり】競技人生を振り返って、自分の自信の核になっているの …まず本気で挑んで本物に出会い敗れ、努力でどうにもならない事があるのを知る。本当の努力はそこから始まる。
– Twitter / daijapan: まず本気で挑んで本物に出会い敗れ、努力でどうにもならない事が …うちのチームの人は、みんな5時くらいにいなくなるなぁ。長時間働いてると能力の足りない人だと思われることがあるし。
– “うちのチームの人は、みんな5時くらいにいなくなるなぁ。長時間働いてると能力の足りない人だと思われることがあるし。” - @Psychs (Satoshi Nakagawa)2年前(2010年)の年末に、宇多田ヒカルの活動休止前のライブがあって。私、チケットが取れなくて映画館のUst上映を見に行ったんですけど、それにすごい衝撃を受けて。宇多田ヒカルのことがすごく好きなんですけど、それが人間の形で現れた瞬間に、「この人はものすごく貴重な才能で、万人に愛されてるし、誰もが素晴らしいと認めている、たぶん日本の歌謡界の誇る偉大な人なのに、自分と同じくらいの背丈と体を持った普通の人間なんだ」っていうことに、ものすごい衝撃を受けて。
– modern fart | 「何歳まで生きますか?」雨宮まみさんに聞く【後編】 私は四〇代の厄年に死ぬ思いをしたことがあった。自らの人生の不運に絶叫したことがあった。声が枯れるほど泣いて絶叫するなんてことが現代人の、しかも自分にあろうとは、若い頃は思ってもいなかった。そしてなんとかして生きていたいと願った。そして不思議となんとなく生きていた。ブログを始めたころにはまだ死の影を引いていた。が、あろうことか暢気にブログを五年も書いている。ということはずるずる生きてきた。幸せであったかと言えば、それ意外になんの言葉もない。生きていることはいいことじゃないかと思う。死を思う人がいるなら、どうせだから生きてみたらいいじゃないか、どうせ生きていてもいなくてもそれほど重要性のある人は少ないから、生きてみようと冗談のように言いたい。
そして、今思うのは、死んでしまった彼に、そう言いたい気がする。
死ぬなよというのではなく、彼がまだ生きていてその思いを聞いてくれるかのように。
うまくいかないとか合わないと思ったら逃げるのも大事。自分の「これは嫌だ」って感覚や直感を押し殺さないようにしよう。嫌なことに関しては精神より身体のほうが敏感なことも多いので、身体感覚に気をつけるのもいいと思う。例えば体を壊すというのは体からの貴重なシグナルなので、しょっちゅう体調を崩しているときは自分の何かを見直してみるべき。
– 世間のルールに背を向けろ - phaの日記pha 他人って結局、取り替え可能だと思うんです。誰か一人がいなくてもそんなに世の中は変わらない。一時的に喪失感があってもすぐに慣れる。恋愛とかすると「自分にとって大事なのは世界でこの人しかいない!」って思ったりするけど、またしばらくすると別の人を「自分にとって大事なのは世界でこの人しかいない!」って思ったりする。結局それは思い込みに過ぎないし、そのへんに虚しさを感じるんですよ。
──そういうの、ぶっちゃけ認めたくない感情もあるんですけど、突き詰めると確かにそういう部分はあると思います。
pha ネットをやってると人との出会いが多いので、いくらでも楽しい人や素敵な人と会う機会がある。誰かが死んだり遠くに引っ越したり性格が変わったりして身の周りからいなくなっても、すぐに他の代替になる人を見つけることができてしまう。だから、人間、死ぬ時は死ぬし、巡り合わせでそのとき周りにいる人を大事にするしかないと思うんですよ。